TANAKAの歴史

貴金属を”多角的”な視点で語る。田中貴金属の長年の歴史・経験の中から浮かんできた、
貴金属の意外な事実や田中貴金属との関わりをコラム形式でご紹介しています。

HISTORY of TANAKA HOLDINGS vol.4

金の歴史 金の大衆化

昭和6年(1931年)から始まったわが国の金統制は、昭和28年(1953年)の金管理法全面改定を経て、昭和48年(1973年)4月、「金の輸入自由化」という形で新たな展開を見せました。昭和46年(1971年)8月にニクソン米大統領が「金とドルの兌換停止」を発表したのが引き金でした。
40年余にわたる金の統制から、大衆化への幕開けです。もっとも、そのときはまだ輸出が自由化されておらず、お客様の「買い」一方の片側通行でした。
しかし、金が自由に手に入るというこの輸入自由化によって、日本の金市場は大きな変化を見せました。デパートは「黄金セール」など銘打って販売合戦を繰り広げた結果、一時的な金ブームが起き、自由化直後の1ヶ月だけで34トンもの輸入量を記録しました。
当社にも一般のお客様が金地金(きんじがね)を買い求めに来るようになりました。しかし、当社は大々的なPRを行わず、消極的販売に終始しました。これは、金価格が急騰してお客様が「買い」から一気に「売り」に転じた場合、当社を含めた貴金属業者は輸出規制によって海外に売りつなぐことができないためリスクが大きく、お客様から金買い取りの保証ができないからでした。
ようやく金の取引が完全自由化となるのは、金の輸入自由化から5年後の昭和53年(1978年)4月となります。

TANAKAと貴金属 信義の英国企業

信義の英国企業のイメージ

数多い外国企業との取引関係で一番親密なのは、貴金属会社として世界的に有名な英国のジョンソン・マッセイ社(JM社)です。大正時代からの付き合いで、特に親密度を増したのは、当社が中国から輸入した銀貨を銀塊にしてJM社に輸出した昭和初期のこと。
昭和8年(1933年)、ルーズベルト米大統領がニューディール政策の一環として銀地金(ぎんじがね)を米国銀貨の価格で買い取ると発表したのがきっかけで、銀相場がロンドン市場でうなぎ登りに暴騰しました。そこで当社は、中国から価格の安い銀貨を大量に買い付けて国内で溶解、一貫目単位の銀塊にしたものを英国のジョンソン・マッセイ社に毎日売りつないでいました。
ところが、昭和10年暮れに銀価格は大暴落します。その時、JM社から一通の電報が入りました。「タナカの手持ちの銀の量を通知せよ。全量、値下がり前の価格で買い取る」という好意的な内容でした。
また、当社がJM社の高品質(純度99.95%)のプラチナを輸入する際、「99.9%の純度でもいいから、その分安くして」と頼んだところ、先方から「作業標準が決まっているので99.9%にするには不純物を入れる必要があり、その分割高になる」との答えが返ってきたこともあったといいます。
こうした取引を通じた「誠実」と「信用」の精神が、両社の絆を一層高めていったのです。その後、両社は昭和31年(1956年)「熱電対」の総代理店契約を結び、さらに昭和44年(1969年)には折半出資で工業用貴金属製品輸入販売会社「田中マッセイ」(現田中貴金属インターナショナル)を設立したのです。

TANAKAの歴史 地金商への「変身」

大正13年頃の田中商店のイメージ

創業時の当社は、番頭、丁稚をいれた店員約10人、工場員約10人、飾職人4人の小世帯でした。まだ貴金属商ではなく、バラ銭の交換と回収した古金銀貨幣を純金や純銀に精製して飾屋などに販売する両替商でした。
しかし、両替商は高価な商品を扱うため多額の資金が必要となり、銀行から資金を借りなければやっていけませんでした。このため、多くの両替商は借金返済に追われ、店を閉めることになりました。幸い、当社は工場の加工賃で銀行の利息を支払うことができたものの、経営は決して楽ではありませんでした。
やがて、時代は大正となり、当社は地金商に脱皮します。そのきっかけは、当社が貴金属地金を加工する工場を持っていたためです。初代の田中梅吉が、利の薄い両替商から工場を利用した工業用製造へと徐々に経営方針を切り替えていったのでした。
両替商という商業利潤中心の商売から、工業利潤を求める地金商への「変身」は、その後の日本の工業化の波に乗り成功します。特に、プラチナの精製は、日本では当社だけがその技術を持っていたため、多くの需要を得ることができました。