TANAKAの歴史

貴金属を”多角的”な視点で語る。田中貴金属の長年の歴史・経験の中から浮かんできた、
貴金属の意外な事実や田中貴金属との関わりをコラム形式でご紹介しています。

HISTORY of TANAKA HOLDINGS vol.1

金の歴史 プール3杯分だけ?!

人類が初めて金を手にしたのは、今から6,000年前と言われています。この間、いつの時代も人類はゴールドの輝きに魅せられ、金を求めて世界中を探し回りました。
15世紀以前は金の採取能力が限られていたためわずかな量の金しか生産されず、英国が金本位制を採用した1816年当時も世界中でわずか5,000トンの金しかなかった、といわれています。
金が本格的に採取され始めたのは、1848年に米国・カリフォルニアで金鉱が見つかり、その約40年後に南アフリカで世界最大の金脈が発見されてからです。
こうした歴史の中で、これまでに採掘された総量は約155,000トン。
これは、25メートル×50メートルのオリンピック公式プール「約3杯分」にしかなりません。さらに、今まで産出された金の一部は海底に沈んだり、埋蔵金となっていて、すでに消失しているといわれています。
金の需要は宝飾用をはじめ、地金、金貨以外に、ビデオ、コンピュータ、宇宙衛星などのハイテク産業用の資源として重要な役割を果たしています。しかし、現在地球に埋蔵されている金は約76,000トン程度(WGC調べ)。
しかも、その大部分は採掘が困難な場所にあり、近い将来は、地上にある在庫を再利用し続ける以外に手段がなくなると言われています。

プラチナの歴史 代理店契約

白金章 昭和五十年のイメージ

プラチナは、日本国内ではほとんど産出されず、明治、大正時代は、英国や米国からの輸入に頼っていました。ところが、2代目社長である田中一郎が、当時世界のプラチナ産出量の約70%を占めるソ連から、直接輸入することを思いついたのです。
交渉は大正9年ごろから始まり、3年後の大正12年4月にようやく販売権に関する契約を締結することが出来ました。その内容は、田中商店(当時の社名)がプラチナ・パラジウムの日本総代理店となり、東洋における販売権を一手に引き受けるというものだったのです。しかも、取引条件は米英と同一。プラチナ需要が増大していた日本にとっても有益な取引でした。ただ、ソ連から輸入するプラチナの消化は大変で、なんとかしなければと昭和11年に「白金章」を作って販売しました。
この契約締結記念に、ソ連政府から油絵が贈られました。なんと、終戦直後には「10万ドル」の値打ちが!しかし、今でもこの油絵は、田中貴金属の歴史を物語る大事な資産として、当社に大切に保管されています。

工業技術の歴史 クロスバー接点

田中貴金属の工業技術力は、戦争中に陸・海軍の管理工場となり、軍需産業として開発された技術がその基礎となっています。昭和20年には、戦時供出されたプラチナの精製により当時の軍需大臣吉田茂(後の総理となる吉田茂とは別人物)より表彰を受けています。その技術を生かして当社の発展に貢献したのが、昭和30年頃の「クロスバー接点」の生産でした。
「クロスバー接点」とは縦方向と横方向に交差した通信路を接続するための接点のことで、台形の貴金属接点をクロス配置させて接触させます。接点は、接触するときに表面のざらつきや酸化・硫化があると発熱して溶着してしまい、機能しなくなってしまいます。このため、容易に酸化されない貴金属が使われています。
終戦後、連合軍のマッカーサー司令部で、電話通信網を完備する方針が出され、電話機と交換機用の接点の仕事が急増。昭和28年ごろから、当時米国で採用されていたクロスバー方式の研究が進められ、日本の経済復興の波に合わせ、需要は急速に高まったのです。
当社もクロスバー接点の生産に追われる中、お客様のご要望により無垢の貴金属接点から少貴金属化を図り、コストダウンを実現させました。そのときの経験によって材料や加工の技術がさらに高まったのです。